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最高裁判所第二小法廷 昭和35年(オ)216号 判決 1963年6月07日

上告人 甲野花子(仮名)

被上告人 甲野太郎(仮名)

主文

原判決を破棄する。

本件を大阪高等裁判所に差し戻す。

理由

上告代理人箕田正一、同入江俊二の上告理由第一点、第二点について。

原判決は、判示事実関係のもとでは、被上告人と上告人との婚姻関係は、双方の性格の不一致と愛情の喪失によつて、深刻かつ治癒し難い程度に破綻し、婚姻の実をあげうる共同生活の回復はもはや望むことができず、この状態は婚姻を継続し難い重大な事由がある場合にあたる旨判示している。しかし、婚姻関係が破綻した場合においても、その破綻につきもつぱら又は主として原因を与えた当事者は、自ら離婚の請求をなしえないものと解するのを相当とするところ、原判示事実関係によれば、双方の婚姻関係の破綻は、被上告人の独善的かつ独断的行為に起因するものが多大であることが窺えないわけではなく、しかも、双方がさらに反省と努力を重ねるならば、双方の子供達を中心とする周囲の者の協力、援助のいかんによつては、必ずしも将来円満な婚姻関係を回復することが期待できないものでもないことが推認できる。従つて、当事者双方の婚姻関係を継続し難い重大な事由があると判断した原判決は、民法七七〇条一項五号の解釈、適用を誤つたものというべく、論旨は理由があり、原判決は破棄を免れない。そして、原審をして双方の婚姻関係を継続することの可能性の有無についての諸般の事情並びに右婚姻関係の破綻原因は主として被上告人が与えたものというべきか否かについてさらに審理を尽させるため、本件を原審裁判所に差し戻すのが相当である。

よつて、民訴四〇七条一項に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 河村大助 裁判官 奥野健一 裁判官 山田作之助 裁判官 草鹿浅之介)

裁判長裁判官 池田克は退官につき署名押印することができない。(裁判官 河村大助)

上告代理人箕田正一、同入江俊二の上告理由

第一点原判決には判決に影響を及ぼすこと明かな法律解釈適用の誤謬がある。

(一) 原判決の挙示する(1)ないし(18)の事実は、原判決も認めているとおり、これをもつて上告人又は被上告人が道義に反する行為をしたとか、婚姻上の義務に違反する行為をしたとかいうことのできるものではない。それのみならず、これらの出来事は一般の家庭においてもしばしば見受けられる類のものである。昭和一〇年四月に始まる二〇年間の夫婦生活である。些細なことを取りあげておれば枚挙にいとまがないであろう。ただこれらの事実を具に検討するならば、原判決も認めているとおり、被告人の母(以下単に母という)に関連して多くのトラブルが生起していることを看取することができるのである。

従つて原判決は、母自身が上告人につらく当つたようなことはなく、上告人ら夫婦の不和を誘発したものでもないといつているけれども、母との関係を無視して本件夫婦の問題を考えることはできないのである。

即ち、朝鮮在住当時の出来事は(原判決摘示(2)ないし(7)の事実)、すべて母が来鮮して上告人らと同居している間に発生したものであり、京都に転住してからの出来事は(原判決摘示(10)以下の事実)、昭和二四年母と同居するようになつてからのものである。

反面からこれをいうならば、母が同居していない場合には、夫婦生活は至極円満に送られてきたのである。殊に昭和一五年から以後は、戦争から終戦という困難な時代であつたにかかわらず、精神的にも最も幸福な生活が営まれ、昭和二四年四月に二女洋子が出生する程であつた。

上告人と被上告人を比較すると性格的に相異する点が多いであろう。然し性格の相違それ自体が離婚の事由にならないことはいうまでもないことであつて、現に前述のとおり上告人らは性格が相異するにかかわらず、母と同居しない場合には円満な夫婦生活をしてきたのである。

これを要するに、本件は世にありきたりの嫁と姑の関係から生ずる家庭内の紛糾である。ただ、第一審の判決も指摘しているとおり、被上告人は母に対する畏敬の念が非常に強いため、上告人に対し母への絶対的従順を求める結果となり、遂には夫婦間の不和にまで発展することになるのである。

然しその母も既に八十有五歳を越えている。一方四人の子供はそれぞれ進学し、長女典子は結婚適齢期に達し、長男は実社会に歩を踏み入れんとしている。

以上の諸点を彼此勘案するならば、本件事案がいわゆる婚姻を継続し難い重大な事由に該当するとは到底考え

られないのである。

(二) 次に婚姻関係は主として夫婦間の身分上の関係に重点が置かれるものであることは勿論であるが夫婦間に子女の出生を見るに至り又財産権上の関係を生ずるに至つた場合には、婚姻を継続し難い重大な事由があるや否やを審査するに当つてはこれ等の関係をも慎重に考慮しなければならない。原判決は子女との関係につき「婚姻の実のともなわない両親が名目上のみ夫婦であることを続けたとしても、その子供の不幸はその夫婦が離婚した場合と大差はない」というが、戸籍上実父母の揃つておることは子供にとつて多大の幸福であり、父母がたとい別居しておつても、本件における如く両者間を往来し、未成年者にあつては双方の親権に服し、成年に達しても両親の揃つていることを意識して満足を感じ、他人に対してもそのことを誇ることができるが父母が離婚してその戸籍を異にしたときは、子女の被る精神上の苦痛は甚大で殊に女児にとつて戸籍上両親が揃つていないことは、子供自身の結婚の成立にも差支を生ずるものである。又一方経済関係については、夫婦は離婚により相手方の扶養を受ける権利を喪失する。この経済上の損失は、財産の分与等によつては十分に補い得るものではない。殊に本件においては被上告人は公務員として永年勤続し、退職後は恩給を受ける権利を有しているから、上告人が被上告人よりも永く生存するときは、遺族扶助料を支給されることとなるが、離婚はこの期待権を奪い去るのである。上告人が有責行為あるために離婚され、この期待権を奪われるならば格別とり立てて責むべき程の行為もないのに、被上告人の一方的要求により離婚され、永年妻として同棲したため獲得したこの期待権を一朝にして失い老後の生活の安定に迷わざるを得ないのは不当であつて、この点を斟酌しない原判決は先の子女の関係に対する見解と共に民法第七七〇条第一項第五号の解釈適用を誤つた法律違背がある。

(三) 百歩を譲つて仮りに右(一)の見解が当を得たものでないとしても、原判決の認定する夫婦生活の破綻は、上告人の責任によつてもたらされたものではなく、むしろ被上告人側の責任において生じたものであるから、結局婚姻を継続し難い重大な事由には該らない。

即ち母は日露戦争でその夫を失い、女手一つで被上告人ら三人の子供を育てあげて来たのである。米沢という出身地の気風は別としても、よ程の嫁でなければこの姑に仕えることは困難である。

一方被上告人はその母に絶対服従である。母への孝養心に篤いとはいえ、母が同居すると二階で母と寝食を共にし、妻子との団らん、夫婦の交りをも犠牲にして異としないのである。従つて母が同居すると、家族間の意思疎通は妨げられ、夫婦の融和を図ることができないのである。

挙句の果てには、昭和二七年四月被上告人は一方的に母と連れだつて別居し、毎月一万五千円という申訳程度の金額を妻子五人に仕送るのみで今日に至つているのである。(当時から被上告人は地方労働委員会の委員などをして別途収入があり、月額七万円余の収入があつた)

たとい嫁と姑の間に軋れきがあつたとしても、夫たる被上告人はその調停役を買つて出て、家庭の平穏を維持すべきである。然るに被上告人はただ母に従順なだけであつて妻の立場を理解せず、夫婦間の不和にまで問題を紛糾させ、遂に夫婦別居という破局にまで追い込んでしまつたのである。

かくて上告人には妻としてこれといつた非難されるべき点もないのに、旧思想時代と何ら変らない考方の前に既に数年間艱難を忍んできたのである。このうえ既に愛情も失われてしまつたという一方的な被上告人の主張によつて離婚が強制されるのでは、嫁としての上告人の立場は全く顧みられないといつて過言ではなかろう。

このように自ら破綻を招いておきながらそれを理由に離婚を請求する被上告人の主張は、到底認容せられるものではないと信ずるのである。

(四) 更に原審は、被上告人が、昭和二七年四月一九日上告人と四人の子女を家に残したまま、母すぎと共に住居を去り、今日に至るまで上告人との同居を肯じない事実を認定しながら、「右は当事者双方の既に破綻している婚姻関係をより深刻化したことは推認されるけれども、それ自体が双方の婚姻を破綻せしめたということはできない」と断定した。然しながら夫婦間における同居の義務は婚姻関係の重要なる内容であつて、同居義務の違反は民法第七七〇条第一項第二号の悪意の遺棄に該当する。自ら婚姻についての重要な義務の不履行ある配偶者の一方が、とり立てて責むべき程の行為のない相手方に対し、それがなお夫婦関係の継続を望むに拘らず、その意に反して一方的に離婚の申立をすることは許されないことであつて英法に所謂クリーンハンズの法則の精神は、我民法においてもこれを採用しているところである。従て原判決は法規の解釈を誤つた違法がある。

以上のいずれの理由によるも原判決は婚姻を継続し難い重大な事由という法律の解釈適用を誤つたものであつて、判決に影響を及ぼすこと明かであるから、破毀されるべきものである。

第二点原判決には判決に影響を及ぼすこと明かな経験法則の違背がある。

原判決は上告人と被上告人間の家庭生活における一八項目の出来事を掲げ、これに、第一審における証人T、E、O、H、S及び甲野靖一の各証言、並びに第一審における被上告人本人(原告本人)第二回尋問の結果及び上告人本人(被告本人)第一、二回尋問の結果を綜合して、上告人と被上告人の性格が長期間融和せず、夫婦としての愛情が失われていると認定している。

然しながら、証人T、E、O及びHはいずれも昭和二六年以降、被上告人の相談を受けて初めて本件の夫婦問題に介入したものであつて、夫婦たる当事者間に生起したそれ以前の具体的出来事について直接関知する筈がないのである。

証人甲野靖一についても、同人が昭和一一年四月に出生したことを考えれば、昭和二六年頃迄は未だ幼少であつて、夫婦間の微妙な出来事について、何程的確な証言が期待できるか甚だ疑問である。

従つて、これらの者の証言は、離婚原因たる事実に関する限り、いずれも過去の経験的事実の陳述ではなく、意見の表明とならざるを得ないのである。

因に、原判決の引用する証人Tの第一審における証言は末尾が「印象を受けた」という表現になつているものの、主要部分は「原告(被上告人)の家が米沢の士族で親が軍人でもあり厳格であるのに、被告(上告人)は京都人で全然環境も異るし、性格も違うので一緒に居てもうまく行かぬのは当然だ」となつており、過去において見分した事実の陳述ではなく全く証人の意見以外の何ものでもないのである。第一審証人Hの証言中控訴裁判所の引用する部分も全く同証人の意見の陳述であつて、証言として採用し難いものである。

更にまた、原判決において引用する第一審における被上告人本人(原告本人)第二回尋問の結果は、ヒステリー性格についての抽象的なM博士の意見に基き、被上告人が上告人をヒステリー性格であると断定しているのであつて、意見の積み重ねが表白されているものといわなければならない。

このように原判決は一八項目に及ぶ具体的事実については、専ら当事者本人尋問の結果に頼つてこれを認定し、これら間接事実に前記証人らの意見証言を加味して、当事者間の融和し難い性格の不一致と愛情の喪失を認定しているのである。

かかる事実判断は、いわゆる経験法則に違背するものであつて、判決に影響を及ぼすことが明白であるから、原判決は破毀を免れない。

参考

一審判決(京都地裁 昭三〇(タ)二号 昭三三・一〇・二一判決 棄却)

原告 甲野太郎(仮名)

被告 甲野花子(仮名)

主文

原告の請求はいずれもこれを棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人等は、原告と被告とを離婚する。原被告間の長男靖一、長女典子、二男裕二及び二女洋子の親権者をいずれも原告とする。被告は原告に対し右四名の子女を引渡せ。との判決を求め、その請求の原因として、

一、原告と被告とは昭和一〇年四月訴外Y夫妻の媒酌によつて結婚式を挙げ同年七月二二日婚姻の届出を了えたが、その後原被告間に、昭和一一年四月一日長男靖一が、同一二年四月五日長女典子が、同一四年四月一四日二男裕二が、同二四年四月三日二女洋子がそれぞれ出生した。

二、原告は○○高等学校を経て昭和二年○○帝国大学(以下新学制による○○大学を含めて○大と略称する)経済学部を卒業し被告と結婚した後は△△大学に奉職していたが昭和一五年二月○大経済学部に転勤し現在同学部教授の職に在り、被告は京都府立○○高等女学校を経て同府立女子専門学校を卒業した後原告と結婚するまで京都市立○○高等女学校に教諭として勤めていたものである。

三、然るに原被告間には左に陳べる如き婚姻を継続し難い重大な事由がある。即ち

(一) 被告は我儘且気紛れで我執の強い性格であるため、常に何らかの偏見に支配されて物事を判断し正当な根拠のない不平不満が昂じて人と激突する傾向が強く、原告に対しても理性と感情の均衡がとれないまま自己の非違をあくまで押通そうとしこれを矯正しようとすれば却つて益々反抗の度を強めるばかりであつて、被告のかかる性格上の欠陥は婚姻生活においてもまた社会生活においても重大な障害をなしているのである。例えば(イ)被告は結婚当初既に原告に反抗の態度を示し、そのため原告は当時既に一時離婚を決意した程であつた、また(ロ)京城在住中は原告のみならず女中とも常に衝突するので女中さえも長続きせず、特に二男裕二出生の前後は殊に気が荒くなり出産二ヵ月位前に漸く雇入れた中年の女中に無理難題を吹きかけてこれと大喧嘩を演じた挙句その女中を逃げ出させてしまつた。(ハ)右の喧嘩が原因してか被告はその二、三日後に予定日より三週間もはやく二男を分娩したが、その直後に手伝いに来た原告の母訴外すぎ(以下母と略称する)に対し何ら感謝の意を表さないばかりでなく、却つて突然考えたいことがあるから京都の実家へ帰らせてほしいと言い出し、原告が産後の長途旅行が無理であることを諭してこれを断念させたところ、事毎に原告に反抗的な態度をとり、これを見兼ねた母が被告を宥めようとすれば母が原告に加勢すると誤解してか益々いきりたつて暴言を吐き散らす有様であつた。尤も以上の被告の言動は一見被告の若さ若くは産前産後の一時的な興奮状態の然らしめたところであると考えられないでもないが、そうではなくて被告の前記の如き性格に起因するものであることは当然思慮分別の備わるべき年齢に達した後も同様の事例を繰返しているところから明らかである。即ち例えば被告は(ニ)昭和二四年暮頃その実兄訴外S方で正月用の餅をつかせて貰つた際些細なことから激昂して同人と大口論を演じた末、その後暫くの間双方の往来を中絶させ、また(ホ)近隣の年長の婦人とつまらぬことで衝突し数年間に亘つて双方反目を続けたことがある等、かかる事例は枚挙に遑がない。

(二) 次に被告には原告が如何に矯正しようとしても改らない朝寝の癖があつて、これがため朝食が子供達の登校時までに間に合わず子供達が食事もそこそこに学校へ駆けつけねばならないことが屡々あり、ひいては昼食が午後一時半か二時頃に、夕食は午後八時頃になる始末である外、子供達の衣服等の整理もまた頗る不手際である。このように被告は家事処理の能力に著しく欠けているため、原告が被告に内助の功を期待し且つ快適な家庭生活を営むことを望むことができないばかりでなく、子供達の健康と教養の両面において憂慮に堪えないものがある。

(三) 母は仙台に居住していた原告の実兄の許に身を寄せていたが昭和二四年夏頃右兄が結核に犯されて病臥するに至つたのて、原告は同年一〇月、当時七八歳であつた母を引取り翌二五年二月兄が死亡するに及び原被告方で引続き母を扶養しなければならなくなつたところ、被告は同年秋頃突然「親の面倒をみるという条件は結婚の際聞かされていなかつた」「母を引取るのは私は反対であつた」等と称して別居を要求し原告がその不心得を諭してもその主張を枉けず原告に対して次第に烈しく反抗する傍ら、直接母に対しても嫌がらせの言動を示す等、次第に母を疏んずる態度を露わにしてきた。

(四) かかる家庭の雰囲気の中で起居することは何人にとつても堪え難いところであるが、学究生活を続ける原告には殊に家庭生活の平和が要求されるところから、原告は事態の円満な解決を図るべく友人又は先輩である○大教授数氏を煩わして被告の説得を試みたけれどもその効がなかつたので、遂に昭和二七年四月老母と共に被告と別居して現在に至つている。

以上の如き事情の下において、原告が今後被告と婚姻を継続してゆくことは原告にとつて到底堪え得ないところであるから、原告と被告との間には婚姻を継続し難い重大な事由があるものというべきである。

仮に前記(一)乃至(三)の諸事実が認められず従つて原告と被告との別居が被告の責任に基くものでないとしても、別居は婚姻破綻の端的な表われであつて而もこれが六年余の長きに及んでいる現在においては、事此処に至つた原因を探究するまでもなく、別居している事実自体が婚姻を継続し難い重大な事由に該当するものといわなければならない。

四、次に被告は前記の如くその性格に重大な欠陥があるので被告に子供達を委ねては到底満足な養育を期待し難く、特に長男靖一は常に病身で内分泌失調の持病を有し綿密な健康管理を必要とするのであるがこれを被告に望むことは到底不可能である。

五、よつて原告と被告との離婚、原被告間の前記四名の子供の親権者を原告とする旨の指定並びにその引渡を求めるため本訴に及んだ。

と陳べ、立証として甲第一号証、第二号証の一・二を提出し、証人(中略)並びに原告本人(第一乃至第三回)の各尋問を求め、乙号各証の成立を認めた。

被告訴訟代理人は主文同旨の判決を求め、答弁として原告主張の事実のうち、第一、第二項中二男裕二出産の二ヵ月位前に雇入れた中年の女中を出産数日前に解雇したこと、被告が右出産のため入院した翌日母が原被告方へ来たこと、昭和二四年暮頃被告がその実兄訴外S方で正月用の餅をつかせて貰つたこと、昭和二四年夏頃、当時母が身を寄せていた原告の兄が病臥するに至つたので原告は母を引取つたが翌二五年二月右兄が死亡したため引続き原被告方に母を同居させて扶養してきたこと、その後○大教授数氏から被告に対し原被告方の家庭の問題について交渉のあつたこと並びに昭和二七年四月原告が母を引連れて被告及び子供等と別居して現在に至つていることの各事実はいずれも認めるが、その余の事実はすべてこれを争う。元来原告は俗に「内入りが悪い」といわれる型の人であつて、家庭外では円満な社会生活を営む反面、一歩家庭に入れば極めて自己中心的で、夫婦関係は連夜の如く要求しながら一方では一般の家庭では問題にされない日常の些細な家事処理に関し神経を尖らせてくどくどしく被告に言いからみ、甚しい場合には精神分裂に近い状態に陥ることすらあるのであるが、かかる状態が長期間続くときは、或いは階段から転げ落ち或いは昼間便所へ入るにもその都度電灯を点け或いは又被告の外出中に押入の行李を引摺り出しその中の衣類を庭にぶちあけるなど、常軌を逸した行動を伴うので、被告は心痛しつつこれが慰撫に努めてきた。而も原告は母に対して何事によらず極度に遠慮し、殊にその同居中は母に対しては非常に気兼ねする反面、被告の言動に対しては平常以上に神経を尖らせ、そのために平穏なるべき家庭に波瀾を生むに至つたのである。一方、被告は原告と結婚後二十数年の間ひたすら原告を信頼し敬愛しつつ、能う限りの努力を尽して夫と姑であるその母に仕え日常の家事を処理し子女を養育してきたのであつて、現に原告が○大へ転任した後一年余も母の許で暮した長男靖一が原被告の許に戻つた昭和一六年秋からは原告の気持も落着いて親子五人の和やかな家庭生活を送り、昭和二四年には二女洋子の出生をみることができたのであつた。昭和二七年四月原告が母と共に別居して以来、原告は被告と四人の子供に対して一ヵ月平均一万五、六千円を生活費並びに養育費として仕送つているが、この金額で被告と子供等とが普通の生活を営むことは到底できないので、被告は自分の衣類・身廻品を売払つて生活の資に加え且つ前記被告の兄から毎月多少の経済上の補助を受けながら、原告が被告と子供等との許に帰り再び平和な家庭生活を営むことのできる日の一日もはやからんことを切望しつつ、子女の養育に専念しているのである。原告が婚姻を継続し難い重大な事由として主張する種々の事実はすべて原告が前記の如き性癖から誤解又は曲解した結果を列挙したものに過ぎず、又その別居も被告の意思に反して原告の強行したところであるから、いずれも正当な離婚原因にはならない。被告が未だ原告に対する愛情を喪つていないことは勿論であつて、やがては老境に入る原被告の将来と成長しつつある子供等の幸福とを考えるならば到底原告の本訴請求には応じ難い。と述べ、立証として乙第一号証、第二号証の一・二を提出し、証人(中略)並びに被告本人(第一、二回)の各尋問を求め、甲第一号証の成立を認め同第二号証の一・二はいずれも不知と述べた。

当裁判所は職権を以て証人甲野すぎ並びに原告(第四回)、被告(第三回)各本人を尋問した。

理由

先ず原告と被告との婚姻するに至つた事情及びその後現在までの生活の経過を概観するに、公文書と認められるので真正に成立したものと推定すべき甲第一号証、証人(中略)の各証言並びに原告(第一乃至第四回、但し後記措信しない部分を除く)被告(第一乃至第三回)各本人尋問の結果を綜合すれば、原告は旧○○高等学校を経て昭和二年○大経済学部を卒業し××大学に勤務しているうち、昭和八年頃原告の従兄姉である訴外K夫婦が、当時既に京都府立女子専門学校を卒業して同市立○○高等女学校で教鞭をとつていた被告を原告にめあわせようとしたことがあり、この縁談は不成立に終つたけれども、原告は同一〇年初頃新たに△△大学法文学部助教授として勤務することになつたのを機会にみずから母の従兄弟である訴外Y夫妻に被告を妻に迎えるよう尽力して貰いたい旨を懇請し同夫妻を通じて被告に結婚を申込み被告及びその家族の承諾を得たので、原被告は同年四月一一日右夫妻媒酌のもとに平安神宮において結婚式を挙げ、同日から琶琵湖畔次いで新和歌浦へ新婚旅行をした後京城に新居を構えて同年七月二二日婚姻の届出を了えた(当時原告は満三三歳、被告は満二五歳)。その後原被告間には昭和一一年四月一日長男靖一が出生し、被告は間もなく長女典子を懐胎したのであるが、当時東京に居住していた母が翌一二年三月中旬頃初孫である靖一をみがてら京城の見物をするため原告の招きに応じて原被告方を訪れ滞在しているうち、同年四月五日右典子が出生した。母は同年九月末頃帰京し、原被告間には翌一四年四月一四日二男裕二が出生したところ、かねて原被告等と一緒に暮したいと考えていた母が偶々同日夜京城に到着し、同年一〇月迄原被告と起居を共にしたけれども、朝鮮の風土が適しないためか健康を害したので母は再び東京に帰つた。翌一五年二月下旬頃原告が○大経済学部に転任することになつたので、原被告は子供達と共に京都市左京区○○町へ移住し更に昭和一九年同区○○町○○番地に居を移し、昭和二一年に至つて原告は右学部長に選ばれ戦後の混乱期にあつた同学部の再建に精魂を傾け、やがて昭和二四年四月三日二女洋子が出生した。同年一〇月頃原告は当時母が身を寄せていた仙台市に居住する原告の実兄が肺結核に犯されて病臥していたため、学会に上京した機会を利用して母を自宅に伴い帰つたが翌二五年二月右実兄が死亡したので爾来母は原被告と同居することになつたところ、原告は昭和二七年四月一九日突然母を伴つて被告及び子供達と別居し同市内竜安寺附近に間借りして生活し、その後同市左京区北白川上○○町○○番地に住宅を需めて居を移し、引続き現在まで母及び書生と同居するだけの孤独な生活を営んでいる。一方被告は四人の子供達と共に○○町の家に残り月金四千円の家賃と家主よりの賃料値上げ更には立退きの請求に迫られながらも後記の如く乏しい収入で経済的にも不安の日々を送つているが、右四人の子供達はいずれも優秀な学業成績をあげ、長男靖一は病気のため高等学校を一年で中途退学したに拘らず独力で高等学校卒業資格の検定試験に合格した現在○大理学部に四回生として、長女典子は○○大学三回生として、二男裕二は○大医学部一回生としてそれぞれ在学中であり、二女洋子は○○○小学校に通学しているのであるが、原告は被告に対し月額金一万五千円の生活費を仕送る外子供達の学資としては各大学の授業料年額合計金二万七千円を負担するだけであるので、被告は別居当初は自己の身廻品を処分したり学生に間貸しをして生計費にあてる傍ら、もと教職にあつたことから訴外Aに教員としての就職の斡旋を依頼したが、思うようにならないまま現在は被告の兄である訴外Sから子供達の学資として月額四千五百円の援助を仰ぎ、長男、長女及び二男がそれぞれ奨学資金を受ける外に右の子供達の家庭教師のアルバイトによる収入をも加えて学資並びに生活費を賄つている状況であることが認められ、以上認定に反する原告本人第一回尋問の結果の一部は措信せず、他に右認定を覆すに足る証拠はない。

そこで原告が婚姻を継続し難い重大な事由にあたるものとして主張する諸事実について順次検討すると、まず原告が被告の性格的欠陥の表われとして挙げる事実のうち(イ)被告が結婚当初既に原告に対して反抗的態度を示したとの点については、証人Sの証言並びに原告(第一乃至第三回)被告(第一回)各本人尋問の結果によれば、原被告が新婚旅行に赴いた琵琶湖畔及び新和歌浦の旅館においていずれも初夜の営みが円滑に行われなかつたため原被告ともかなりの精神的衝撃を受け、原告は離婚しなければならないかにまで思い詰め、被告も、また将来の夫婦生活に不安を抱き、旅行の帰途当時大津市に居住していた被告の兄前記Sの許に立寄り事情を打明けて相談したところ、医師である同人が原被告双方にそれぞれ然るべき助言を与え、特に原告に対しては原被告が京城に赴いた後、性生活に関する書物を送つて指導した結果原被告は間もなく正当の夫婦関係を有つようになつた事実が認められ、右認定に反する証拠はない。而して原告に対する第二、三回尋問中には、原告が右の如く初夜の営みに失敗したため被告が自分の生涯を台なしにした等と激しく原告を非難した旨の供述があるけれども、右供述部分は被告本人第一回尋問の結果に照し容易に措信できないのみならず、仮に被告が右のような事柄を口走つたことがあつたとしても、その後の経過特に十数年の間同居生活を続けその間に相当円満な期間が続いたこともあり四人の子女すら挙げていることに徴すれば之を以て直ちに被告の性格に婚姻生活と相容れない重大な欠陥があると断じることは相当でない。次に(ロ)原被告が京城において生活している期間中被告が屡々女中と紛争を起したとの点については、原告(第二回)被告(第一回)各本人尋問の結果によれば、原被告方では長男靖一の出生する少し前から日本人の女中をおいたけれどもその女中に盗癖があつたために間もなくこれを解雇し、その後二男裕二の出生数日前までの約三年間に前後を通じて五人の朝鮮人の女中をおいたが、その中二人はいずれも約一年半ずつ勤め他の一人は収入の都合で領事館へ勤めを替え、又他の一人は余りに日本人の家庭に慣れないため数日勤めただけでみずから暇をとつたこと、最後の一人は中年の女で紹介者もなく訪ねて来たがその頃既に二男の出生が近づいていたので、被告は少くとも右出産の後まで勤め続けることを条件にしでこれを雇入れたところ、後に至つて諸所の家庭を転々とした余り感心のできない女であることが判明し、被告が出産前であることにつけ込み、何かにつけて不服があるなら暇をとると不貞腐れるので遂に被告もこれを解雇するに至つたことが認められ右認定に反する原告本人第二回尋問の結果の一部は措信出来ない。而して右の事実によつてしては被告が女中に対し特に過酷な態度をとつたため各女中をして居たたまれなくさせたと認めることはできず、外に此の点に関する原告の主張を肯認するに足る資料はない。(ハ)二男出生後同居していた母に対する被告の態度については原告に対する第二、三回本人尋問中に、被告が二男出生後乳腺炎を患つていた頃、母が近所の人に「一番大事なものに倒れられて困つています」といつたことを聞いて激昂し出産の際に母に来て貰いたくなかつたといつて泣き出したので母がこれをたしなめた旨の供述があるけれども、右供述は被告本人第一回尋問の結果に照したやすく信を措き難いばかりでなく、証人甲野すぎの証言に照せば仮に被告にかかる言動があつたにせよ、母の面前で母に対しかかる言動をとつたものと認めることはできず、被告が原告に対して右のような態度を示したものとすれば、嫁の立場に立つ被告として常に姑である母の言動に神経をつかい、兎角近隣の風評にも気に病み勝であることは察するに難くないところでありその結果時に思い過し又は思い余つて原告に訴えることがあつてもその原因を性格の欠陥に帰することはできない。(ニ)被告が昭和二四年暮頃兄Sと喧嘩しその後暫く双方の往来が中絶したとの点については、証人Sの証言によれば、同年末被告が兄S方で原被告方の正月用の餅をつかせて貰つていた際被告が手間取つたため右兄がこれに叱言を言つたのに対し被告が口答えをし、兄が「これからもう来るな」といつた事実が認められこれに反する証拠は存在しない。而もその後被告と右S方との間に交際が途切れたことを認むべき証拠はないので、右の口論は単なる一時の兄妹喧嘩に過ぎなかつたというの外はなく、又(ホ)被告が近隣の婦人と紛争対立を惹起したとの点については、かかる事実を認定すべき証拠がない。なお以上の外、原告に対する第一乃至第三回本人尋問中には、(1)被告は昭和一二年三月に母が原被告方を訪れることに激しく泣いて反対したこと、(2)その後京城在住中の或る朝原告が被告に原告の出勤する際には見送りに出るように注意したところ被告が「三つ指ついてそんなことは出来ません」と大声で言つたこと、(3)昭和二一年三月上旬頃原告が学部長として○大経済学部再編成に腐心していた当時、被告がそのことに関して原告に質問し原告がこれに答えなかつたのに腹を立てて原告の顔を掻きむしつたこと、(4)昭和二六年頃被告が原告及び母に聞えよがしに「兄が亡くなつたら親子が共謀して嫁を追出すのが甲野の家風だ」と言つたこと及び(5)昭和三二年三月三一日午後一〇時半頃帰宅した長女典子に対し髪を掴みこづきまわして折檻したこと等の諸事実があつた旨の供述があり、原告はこれらの事実をも被告の性格が異常てあることの証左とするけれども被告本人第一、二回尋問の結果に照して勘案すれば(1)の事実は当時母が京城へ来る目的は先に認定した如く初孫をみがてら京城見物をするにあつたので、被告としては結婚後はじめて気心の判らない姑を迎えることでもあるので産前産後の立居振舞の不自由な時期を避け母のもてなしに万全を尽したいとの心情に出たものであり、(2)は乳幼児を抱えた被告が時偶その世話に手をとられて玄関へ出られないことがあるのは已むを得ないところであるのにかかる事情を理解せずして見送りを求める原告に多少の不満を述べたまでのことであつていずれも気の措けない夫に対する言動であるから必ずしも被告を責むべき事柄ではなく、(3)の事実については証人Oの証言中にこれに添うが如き供述があるけれども右は原告からの伝聞にかかり(4)の事実に関する原告の右供述とともにいずれも右被告本人尋問の結果に照し容易に心証を惹き難いところであり、(5)の事実については証人甲野典子の証言並びに被告本人第二回尋問の結果によれば長女典子が右日時に帰宅したので被告がこれを激しく叱責したことはあるが、深夜帰宅した年頃の娘に対し母親が或程度厳重な叱責をするのはむしろ当然であるし叱責の度合がいささか並外れたものであつたにせよ離婚訴訟を提起され懊悩の日夜を送つている被告にたまたまそのような言動があつたとしてもこれを以てあながち被告の非違を責めることのできないのはいうまでもない。而して以上の事実を綜合しても被告の性格に原告主張の如き重大な欠陥があるものと認めることはできず、他にこれを認めるに足る証拠はない。

次に被告が家事処理の能力を著しく欠いているとの点については、証人A、甲野すぎ、甲野靖一及び甲野典子の各証言並びに原告(第一乃至第三回、但し後記措信しない部分を除く)被告(第二回)各本人尋問の結果によれば、被告は、早暁四時頃眼の覚める老齢の母には及ばないながら、通常午前六時頃に起床して朝食の準備をはじめており、次女洋子の離乳期や原告が肝臓病にかかり長男靖一が腎臓病を患つた折などには幼児や病人の食事を別に用意する必要があつたため、時に食事の仕度に手間取つたことはあるけれども、被告が朝寝するために通学中の子供達の始業時間に食事が間に合わないことなどはなかつたこと、原告及び子供達の衣類の洗濯や身廻品の整理には相当の注意を払つていたが、子供達の育ち盛りの頃はそのいたずらのために四六時中室内を整頓しておくことは困難な状態にあつたこと、昭和二四年頃次男裕二が綿のはみ出た布団と絨毯とを掛けて就寝したことがあつたけれども、当時は世上一般に未だ衣料品の入手が困難な時代であり右の布団も被告の着物を解いて作つたものであつたため破損がはやかつたものであること並びに被告は夕食後子供達がねむくならないうちにその予習復習の指導をしてから食事の後始末をしていたが、そのため自分の食器を洗おうとした母が台所の流しを使うことができないので洗面所でこれを洗つたところ、洗面所が破損していたので被告が母にこれを使用することをとめ、その後原告の言いつけにも拘らず手許不如意のため暫く洗面所の修理をしなかつたことが認められ、右認定に反する証人Uの証言及び原告本人第二回尋問の結果の一部はいずれも措信し難い。以上の事実によれば被告の家庭における日常は一般家庭の主婦のそれと大差がないものと考える外はなく、他に被告が特に家事処理の能力を欠除していることを認むべき証拠は存在しない。

また被告が原告及び母に対して反抗的な態度に出るとの点については、先ずその母に対する態度の具体例として原告に対する第一、二回本人尋問中に京城において被告が母に朝の挨拶をしなかつたことがあり、昭和二四年一〇月母が京都の自宅へ来てからも子供のことなどで母をきめつける如き言動があつた旨の供述があるけれども、右供述は被告本人第一、二回尋問の結果に照したやすく措信できず、却つて証人甲野すぎ、甲野典子の各証言並びに右被告本人尋問の結果によれば、被告が母に盾つきまたはこれといがみ合つた事実はなく、むしろ被告は被告の立場から母に気を配り食事なども母が別にこれを用意するようになるまでは母を中心にして摂つていたことが認められ、他に右認定に反する証拠はない。また被告の原告に対する態度については、先に認定した如く被告は原告に対し時に母乃至は母に関する原告の言動について不満を訴えたことがあつたようであるが、それは母の同居中又はその前後に限られており、而も被告としては自己の真意を述べて原告にその立場を理解させるために、事情を訴えたに過ぎないのであつて、結婚以来ことごとに原告に反抗してきた訳ではなく、右認定に反する原告第一乃至第三回本人尋問の結果の一部は証人甲野靖一、甲野典子の各証言並びに被告本人第一、二回尋問の結果に照し措信できない。右の事実によるならば、姑が同居していること自体にすら圧迫を感じ勝ちな嫁の立場にある被告が、夫である原告に不満や苦痛を訴えることはむしろ自然の成行ともいえ、これを原告に対する反抗的な態度とみることはできない。

従つて原告の主張する以上の諸事実はいずれもそれ自体においては、婚姻を継続し難い重大な事由に該当するには至らないものといわなければならない。

そこで進んで原告が被告と別居し更には本訴を提起するに至つた事情について検討するに、成立に争のない乙第二号証の一・二、証人(中略)甲野すぎ(後記措信しない部分を除く)、甲野典子の各証言並びに原告(第一乃至第四回、但し後記措信しない部分を除く)被告(第一乃至第三回)各本人尋問の結果を綜合すると、原告は元来やや気難かしく神経質な性格の人であるが、特に母の同居中は母が早く死別した父に代つて女手一つで原告等兄弟を育てあげた苦労に酬いようとする余り、母に対しては被告とは同衾せずに母の部屋で就寝するなど極度に気兼ねする反面被告に対しては特に厳しく日常生活の些細な点にまで注意の行届くことを要求し、嫁である被告の立場に立つてその心情を理解し姑に対する気苦労をいたわろうとはせず、被告がその勝気な性格から自己の真意を委曲を尽して原告に説明しその理解を求める努力を怠つたことと相俟つて、被告の他意のない言動をことごとに原告及び母に対する反抗意識の発現であると解釈するに至つたこと、かくして原告は昭和一二年及び同一四年に母が同居している間の被告の些細な言動に神経を尖らせ、被告とは人生観・結婚観等について根本的に相容れないものがあるとまて思い詰め、昭和一五年一月四日○大転任の件で京都へ来た際媒酌人である前記Y夫妻を訪ね、被告が朝寝坊で家事ができず興奮し易くて母に対する勤めも充分でない等の理由を挙げて離婚の意思を表明したけれども、同夫妻がその理由が薄弱であると考えてこれに賛成しなかつたところから、同月八日頃右Y方で同夫妻立会のもとに原告及び原告の兄が被告の兄前記Sに対し被告を離別したいから引取つてほしい旨申入れたが、右Sも離婚の理由がないとしてこれを承諾しなかつたこと、そこで右Y夫妻は事態を円満に解決すべく原被告双方と数回話合つているうち、同年四月二〇日原告と母とは同夫妻を訪ねて被告を離別する旨強硬に主張し右Yの数時間に亘る説得にも拘らずその主張を枉げないので、同人は当時広島市に居住していた同人の弟Yを呼び寄せ同人から極力原告及び原告の母を宥めさせたが原告等がこれをもきき入れなかつたため、右Y兄弟は原告に反省を促す目的でこれに義絶状を突きつけたこと、その後原被告の家庭は次第に平穏を取戻し、特に終戦後原告が学部長となつて○大経済学部教授陣の再編成に粉骨している頃は被告は子供達よりはむしろ原告の健康を案じて乏しい食糧も原告を先にし子供達から不服が出る程に原告に協力し、その後も食事時など原被告間の話がはずんで子供達が話かける暇もない程円満な家庭生活を営んでいたが、昭和二四年一〇月母が原被告方に同居するに及び原告は再び二階の書斎で母と寝起きを共にし、被告とは屡々階下の寝室で夫婦関係を続けながらも母に対する遠慮から親しく話合う機会もないままに、またもや次第に被告の些細な言動に神経を剌戟されるようになり、被告が意のあるところを説明しようとすればこれを自分に盾つくものと誤解して被告と衝突を起し、堪り兼ねた被告がかかる原告の態度に不満の意を洩らしたことから被告が別居生活を望んでいるものと思い込んで被告に別居を迫り、被告がこれに応じないため遂には自ら別居しようと考え、昭和二六年二月末頃訴外○大教授Tに被告に対する不満を述べて事態の打開策を相談したところ同人が別居するよりは離婚の方がよいと答えたため離婚を決意し一先ず同人に被告を説得するように依頼し、更には当時○大総長であつた訴外Rの勧めにより同大学N、H両教授も事態の解決に尽力したけれども、いずれも被告をして離婚に同意させるには至らなかつたこと、その間被告は右T夫妻、N、H両教授等に事情を説明し弁護士である訴外Eに相談するなど円満な家庭生活を取戻すよう努力していたが、原告はかねて物色中の貸間がみつかつたことから、昭和二七年四月一九日前認定の如く母を伴つて別居し、昭和二八年一〇月京都家庭裁判所へ離婚の調停を申立てたが被告がこれに応じないままに不調となり本訴提起に及んだことが認められ、以上の認定に反する証人U、甲野すぎの各証言部分並びに原告本人第一乃至第四回尋問の結果の一部はいずれも措信しない。ところで、原告が学者として静安な家庭生活のもとに研究に没頭することを望み且つ原告をして今日あらしめた母の永年に亘る労苦に酬いようとする心情は当裁判所もたやすく理解し得るところであるが、さればとて前記の如く大して咎むべき点もない被告の立場及び心情をも十分考慮しなければならないことは勿論であり、究極のところ当裁判所としては原告が被告に対し几帳面な家庭生活と並んで余りにも性急にまた余りにも潔癖に母への孝養を要求し、そのため漸く形成されようとした平和な家庭にかえつて自ら分裂の危機を胚胎せしめた嫌いのある感を到底払拭することができない。元来原告が異つた環境のもとに育つた被告に対し、当初から自分と同じ程度の敬意と愛情とを以て母に接することを要求したこと自体にいささか無理があるのであつて、本件において被告の稍々勝ち気に過ぎると認められる性質もさることながら、原告としては被告に母への孝養を求めると共に、むしろこれに先んじて自ら同人の心情を理解し、これをいたわりながら次第に母に対する敬愛の情を培つてゆく努力をなすべきであつたに拘らず、この点に関する原告の努力に必ずしも十分なものを看取し得ないのは遺憾である。ひるがえつて、被告は原告不在の家庭を守つて乏しい家計に耐えながら子女の教育に全力を傾注しつつ原告が再び家庭に立帰つて、一家の支柱となる日を待ち望んでおり、他方原告もまた母と共に別居しながらも被告と子供達へ月々の生活費を仕送ることは欠かすことなく、而も原被告双方の住居は互いに徒歩十分を要しない近距離にあり子供達は屡々原告方を訪ねている上に、子供達も原告が被告と起居を共にして一家の父と仰ぐことのできる日を切望しており、従つて原告は一挙手一投足の労を以て妻と立派に成人しつつある子供達との許に復帰し、いつでも再び幸福な家庭を築くことのできる現状であること、及び証人甲野すぎの証言によつて明らかな如く母も原、被告の仲が悪くなつたことに不審を抱き出来得る限り、円満な生活にかえることを望んでいること及び別居当時の事情を考えれば、六年余の長きに亘る別居生活にも拘らず、原被告の本件婚姻は未だ以て破綻し去つているものではないと認めるのが相当である。当裁判所としては教養高い双方当事者が更に一段の反省と努力を重ね、やがて原告一家の幸福を招来することを強く期待するものである。

以上の次第で原被告間には婚姻を継続し難い重大な事由があるということはできず、また親権者の指定は右離婚を前提とするものであるから、原告の本件離婚及び親権者指定の請求はいずれも理由がない。次に原告の子の引渡を求める請求については、右請求もまた本件離婚を前提とするものであるのみならず、長男靖一及び長女典子は既に成年に達しているので親権に服さず、二男裕二及び二女洋子については前認定の如く原被告間の四人の子供は被告の許で順調に健康に成育しつつある事情に鑑み、被告に子女の監護に欠けるところがあると考えることはできず他にこれを特に原告と母との家庭に委ねた方がよりよき養育を期待し得ると認むべき証拠はないので、右請求もまた理由がないことに帰する。

よつて原告の本訴における請求はいずれもこれを失当として棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を適用して主文のとおり判決する。

(注)第二審判決は家庭裁判月報第一二巻第三号一二二頁所掲

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